top of page

数学が苦手な子 ~最終話~

敢えてミスをするもう一つの理由は?ちょっと長いですが読んでいただければと思います。

「数学が苦手な子 ~その2~」で、私は敢えて子供の前でミスをすると述べました。そしてその理由の1つとして「ミスはだれでもすること」「『ミス』と『理解と考え方』の誤りを分けて認識する」など、ミスに対する感情や認識を変えるためと書きました。


そしてもう1つの理由は「数学が苦手な子と共感できる目線を作る」ためです。前のブログにも書きましたが、教師や学習支援の数学担当講師は数学の造詣が深く頼れる存在である反面、苦手な子の気持ちを理解することができません。そんな造詣の深い人との触れ合いを通して、苦手な子は理解されない苦しみや孤独感を数学に持ってしまいます。その積み重ねは、数学や数学担当講師や教師に程度の違いはあれど嫌悪感に近い感情を持ってしまうことも多々あります。嫌いな人に嫌いな科目を教えてもらうなんて、苦行でしかないですよね。


そのため私は「できないことがある人」「間違うことがある人」になります。これだけのことなんですが、意外に効果があります。その理由は、その間違えたことに対する言葉。大抵の教師や学習支援の講師は、その体裁を守るため「ごめんごめん間違えた」の一言でその場を取り繕います。実は私もそうでした。信頼を損ないたくない、頼れる存在になりたいとの思いが先行して、ある意味ごまかしに近いことを言っていました。ですがあるとき、本気でくだらない間違いをしたことがあり、なぜこんな間違いをしたのかを授業の最中に悩んで落ち込んでしまったことがありました。声のトーンは下がり、自分の解答解説にどこか疑心暗鬼になり、伏目がちになって話をする。そんな時間が過ぎ、授業の終わりに「ごめんね、間違えて…勉強し直してくるね…」と告げて帰りました。その日の授業の後、ただひたすら自己嫌悪と自信喪失、職業適性への疑念と眠れない夜を過ごしました。しかし、次の授業の際、子どもがすごく近くに感じました。それも自分が近づいているというより、子どもからの距離が近いように感じたんです。そして、わからないことをはっきり言うようになり、どこがわからない、わからないところがわからないなど、できないことを恥ずかしがらずに言ってくれるようになりました。すごく嬉しくて、わからないことを掘り下げる共同作業が楽しくて、それなのに学習効果がすごく高い時間が流れる。本当に双方にとって充実した時間を過ごせました。


その後、その子は有名国立大学に合格したのですが、合格の報告を貰ってお祝いの言葉を掛けたとき、ふとあのときの数学に対する変化が頭をよぎり、聞いてみたんです。「ねぇ中学のとき、なんで私が大ポカやった日あったよね?バカみたいなミスしたとき。その後からなんか○○くん変わったよね。どうして積極的に数学に向き合ってくれたの?」。かなりストレートに聞いたんです。彼からの答えは「いやぁ、先生もあまり頭良くないんだなって思って、安心したんですよ」でした。その言葉を聞いて、思わず笑ってしまいました。私が頭が悪いと安心するんだと思うとおかしくて、笑いが止まりませんでした。でも、それと同時に、「そうか、子ども達は安心して勉強したいんだ」ということを知ることもできました。それは、信頼や頼りになることだけではなくて、人として安心できる存在にならなければならないということを知ることができました。


よく考えてみると、先生と呼ばれる人に対峙するとき、若干の緊張を覚えますよね。まして、苦手な科目の先生に呼び出される、一対一で話をするなんてことは、それ自体ポジティブな気持ちでいられることは少ないと思います。苦手な科目についての目上の人からの話は、そのものがネガティブな感情をうむ、これが普通なのだということです。そして、彼が教えてくれたように、私もあなたと変わらない人間で、同じように勉強していこうという姿勢で接することで、人として緊張しなくても済む存在になれるのだということがわかりました。


その後私は、数学が苦手な子の前でわざと間違えることを実験的にするようになり、間違え方やそのタイミング、頻度など効果的な間違え方を探るようになり、あることに気づきました。それは、「私も勉強しなきゃ」というニュアンスの言葉が必要だということです。


教えるという立場と教わるという立場は、ある意味上下関係になります。どれだけへりくだろうとも教える立場はその正誤を判断する以上ある意味「基準」そのものであり、教わる立場はその基準に依存せざるを得ません。その立場は逆になることはありません。でも、その上下関係の高低差を低くすることはできますし、気持ちの上で「自分と変わらない」存在になることは可能です。その存在になるためのきっかけの言葉、それが「私も勉強しなきゃ」というニュアンスの言葉ということがわかりました。


このことを説明するのに、私がこのことを理解した例えをお話ししたいと思います。私は、子どものころ子供会の催しで600m級の山への登山をすることになりました。その頂上までの道のりは長く険しく、今にも熊が出てきそうな森を抜け、細い稜線に恐怖し、何とか頂上まで歩むことができました。多くの子ども達はその頂上からの眺望に感嘆の声を上げていましたが、私は「こんな景色のためになんでこんな思いしなければならないんだ…。脚は痛いし、蚊に刺されるし、ハチに追っかけられて…なんにもいいことないじゃん。」と思ってしまい、登山が大嫌いになりました。今でも登山番組を観ても、感動どころか「なんで…」と思ってしまいます。極端な話、登山中の事故や遭難の報道に対しても、疑問しか浮かばないようになってしまいました。こんな私に、山登りが趣味の友人ができたのですが、山登り以外の話が合い、よく飲みに行く付き合いをしていました。


その友人との話の流れで、なぜ登山するのかという話になってしまい、友人は頂上の景色の美しさや登山の過程を考えることなどが楽しいなどの話をしてくれ、私は子どものころの嫌な思い出を話ししました。当然お互いに理解し合えない内容で、感情的になることもなくお互いの気持ちを考えながらの話でしたが、ある話になったときに私は思わず聞き入ってしまいました。その話は「頂上を見ながら登ると、結構キツいんだよ。遠いし、辛くなる場所も危険な箇所も目に入り、『あそこに行くんか…』となるときもあった。今では、それすらも楽しいんだけどね。でも、その感情を持っていた時期、隣に一緒に登る仲間とこの辛さを共感していると考えると、互いに頑張ろうと思えるんだよ。励ましたり励まされたり、危険なところでは互いに声掛けしたり、そうやって登頂したときには達成感でいっぱいになり、喜びも何倍にもなる。仲間と抱き合い、無事であることを喜び、きれいな景色を共有して感動が共鳴する。これを一度知ると、やめられないんだよねぇ。」でした。


この話を聞いて、前述の「わざと間違える」ことの効果、「私も勉強しなきゃ」の言葉の意味がわかったような気がしました。数学の勉強という登山にも似た苦行は、一緒に登ってくれる仲間が必要で、その仲間は自分と同じ高みを共有する存在であること。数学が苦手な子が数学に向き合うためには、この仲間が必要で、この仲間になることが私がその子に向き合う最初の一歩なんだということ。その仲間になるための方法が、「わざと間違える」ことで同じ高みにいる存在を作り、「私も勉強しなきゃ」という言葉で辛さを共有する声掛けになるのだと理解したんです。そこからは、私の数学が苦手な子に対する向き合い方が大きく変わり、どんな問題でもただ教えるのではなく、登山の声掛けのように一緒に順序だてて考え、一緒に答えまでたどり着くような授業をするようになりました。


この向き合い方、小学生の低中学年の子どもであれば、保護者の方でもできるかと思います。すぐ間違えることはありません。複数問解いたとき、子どもの集中力が落ちる前に、一問間違えてみてください。例えば、「13+18=21」のようにです。繰り上がりを忘れた間違えですが、このミスは2桁のたし算のときにありがちなものです。そして、答えを参照して間違えに気づいたフリをしたときに、どこを間違えた、どのような間違い方をしたのかを話して、「私も勉強しなきゃだめだね」と話しかけてみてください。そのときの子どもの表情は、おそらくそれまで算数を勉強していたときと少し違うものになっていると思います。その後、算数の勉強では計算ミスを咎めることがないように心がけましょう。例えば先の「13+18=21」のような間違いのときは、「繰り上がりはミスしちゃったけど、一の位は合ってるね。これなら繰り上がりができればすぐにできるようになるね。」ともうちょっとでできる、ミスさえ気を付ければ正解できると意識させるように話してみましょう。そして、繰り上がりに気を付けて正解したとき、「できたね!!○○ちゃんは繰り上がりさえ気をつければ、正解できるんだ!!私も負けないように勉強しないと!!」と声をかけてみてください。「すごい!!」とか「よくできたね!!」とか安易に褒めることなく、ミスにフォーカスするもそのミスを重く考えることをしないように声をかけ、同じ高みにいることを言葉にする。それだけで、子どもの算数への向き合い方が変わると思います。そして、一緒に勉強して、ときどきわざと間違い、こどもから「それ違うよ」と言われてみてください。それだけで子どもは大きな自信を持つようになり、算数に対するネガティブな感情を払しょくできるようになる機会を得られます。先に複数問と言いましたが、私は一日一問から始めるべきと考えています。嫌いな科目に向き合う時間は短い方がいいです。その分、誤答でもなんでもいいので、向き合う時間を短くても作ってください。そして、嫌気がさす雰囲気が感じ取れたときに保護者の方がわざと間違うのです。そして同じ高みにある仲間を意識できるように声を掛けましょう。ただ、高学年や中学生になると思春期や反抗期、人の考えを読むなどのスキルの成長から、保護者の方ではなかなかこのように接することが難しいかもしれません。


算数、数学が苦手な人間は一人ではなく、それを共感できる仲間がいる。その仲間になることが、私が「できないことがある人」「間違うことがある人」になる理由です。


~長い文を読んでいただきありがとうございました。~

 
 
 

コメント


bottom of page